日常のこととかオリジナル小説のこととか。
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ashita
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女性
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地主(土地貸してます)
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漫画やアニメを見るのが好きです。最推しはフーディーニ ♡
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ブログ、もう書かないと思ってました。
けれど、去年から書き始めた小説によって、過去に書いてた小説も書き始め、ここに載せることにしたのです。
小説は、主に『時間と時間を繋ぐ恋の物語』と『妖精村と愉快な仲間たち』をメインに書いています。
現在は、中高生の武家・貴族・王族が過去を遡るジャンルはダークファンタジーの『純愛偏差値』という小説に力入れています。
純愛偏差値は私の人生を描いた自伝です。
終わることのない小説として書き続ける予定です。
純愛偏差値は今年100話を迎えました。
私にとって、はじめての長編です。キャラクターも気に入っています。
が、走り書きに走り書きしてしまったので、1話から書き直すことにしました。これまで書いたものは鍵付けて残しています。
元々このブログは病気の記録用として立ち上げたものですが、小説載せるようになってからは、ここは出来るだけ趣味的なことを綴りたいと思っております。
病気の記録や様々な思いを綴るブログは移転済みなのです。
ただ、今は日記は個人的な徒然、或いはお知らせとして綴ることが多いかと思います。
小説、ぼちぼちマイペースに書いてゆきます。
よろしくお願い致します。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
お知らせ。
イラストは現在「ナノハナ家の日常」に載せております。サイドバーにリンクあります。
また、「カラクリよろずや」にて無料のフリーイラスト素材配布もはじめました✩.*˚
フリーイラスト素材も増やしていく予定です(*'ᴗ'*)
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
模倣・無断転載などは、ご遠慮ください。
ブログの小説はフィクションであり、登場人物・団体名などは全て架空です。
小説・純愛偏差値に関しましては、武家名・貴族名(程度による) / 及び、武官の階級 / 扇子・羽子板・花札・百人一首・紙飛行機などのアイテム使用方法の模倣の一切を禁じております。
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X @kigenzen1874
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ブログ、もう書かないと思ってました。
けれど、去年から書き始めた小説によって、過去に書いてた小説も書き始め、ここに載せることにしたのです。
小説は、主に『時間と時間を繋ぐ恋の物語』と『妖精村と愉快な仲間たち』をメインに書いています。
現在は、中高生の武家・貴族・王族が過去を遡るジャンルはダークファンタジーの『純愛偏差値』という小説に力入れています。
純愛偏差値は私の人生を描いた自伝です。
終わることのない小説として書き続ける予定です。
純愛偏差値は今年100話を迎えました。
私にとって、はじめての長編です。キャラクターも気に入っています。
が、走り書きに走り書きしてしまったので、1話から書き直すことにしました。これまで書いたものは鍵付けて残しています。
元々このブログは病気の記録用として立ち上げたものですが、小説載せるようになってからは、ここは出来るだけ趣味的なことを綴りたいと思っております。
病気の記録や様々な思いを綴るブログは移転済みなのです。
ただ、今は日記は個人的な徒然、或いはお知らせとして綴ることが多いかと思います。
小説、ぼちぼちマイペースに書いてゆきます。
よろしくお願い致します。
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お知らせ。
イラストは現在「ナノハナ家の日常」に載せております。サイドバーにリンクあります。
また、「カラクリよろずや」にて無料のフリーイラスト素材配布もはじめました✩.*˚
フリーイラスト素材も増やしていく予定です(*'ᴗ'*)
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模倣・無断転載などは、ご遠慮ください。
ブログの小説はフィクションであり、登場人物・団体名などは全て架空です。
小説・純愛偏差値に関しましては、武家名・貴族名(程度による) / 及び、武官の階級 / 扇子・羽子板・花札・百人一首・紙飛行機などのアイテム使用方法の模倣の一切を禁じております。
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〈資格履歴〉
2008年09月09日
→さし絵ライター3級 合格
2010年02月10日
→セルフ・カウンセリング
ステップ2 合格
2011年05月28日
→セルフ・カウンセリング
指導講師資格審査 合格
2012年10月25日
→環境カオリスタ検定 合格
2025年01月20日
→鉛筆デッサンマスター 合格
→絵画インストラクター 合格
2025年03月07日
→宝石鑑定アドバイザー 合格
→鉱石セラピスト 合格
2025年04月07日
→茶道アドバイザー 合格
→お点前インストラクター 合格
2025年04月17日
→着物マイスター 合格
→着付け方インストラクター 合格
2025年05月19日
→サイキックアドバイザー 合格
→サイキックヒーラー 合格
2025年07月01日
→アンガーカウンセラー 合格
→アンガーコントロール士 合格
2025年08月
→漢方コーディネーター 合格
→薬膳調整師 合格
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〈資格証明バナー〉

2008年09月09日
→さし絵ライター3級 合格
2010年02月10日
→セルフ・カウンセリング
ステップ2 合格
2011年05月28日
→セルフ・カウンセリング
指導講師資格審査 合格
2012年10月25日
→環境カオリスタ検定 合格
2025年01月20日
→鉛筆デッサンマスター 合格
→絵画インストラクター 合格
2025年03月07日
→宝石鑑定アドバイザー 合格
→鉱石セラピスト 合格
2025年04月07日
→茶道アドバイザー 合格
→お点前インストラクター 合格
2025年04月17日
→着物マイスター 合格
→着付け方インストラクター 合格
2025年05月19日
→サイキックアドバイザー 合格
→サイキックヒーラー 合格
2025年07月01日
→アンガーカウンセラー 合格
→アンガーコントロール士 合格
2025年08月
→漢方コーディネーター 合格
→薬膳調整師 合格
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〈資格証明バナー〉














純愛偏差値 未来編 一人称版 番外編
《ナミネ》
1941年12月8日。
日本村は大東亜戦争の幕開けとなった。
人はよく『戦争は決して繰り返してはいけない』と簡単に言うけれど、その人たちの言うところの戦争は大東亜戦争のことで、戦国時代は含まれていない。戦国時代だって多くの人が亡くなったのに、何故人は戦争のことを大東亜戦争のみしかカウントせず、戦国時代のことは楽しそうに書物を読んでいるのだろう。私には分からなかった。
真珠湾攻撃は呆気なく日本村の負けとなった。イソロクさんは言っていた。
『出来るヤツは言わなくてもする。けれど、ナグモはしない』
ナグモはしない。けれど、それには裏があったのだ。ナグモさんは軍令部総長から赤城を壊さず戻すよう事前に命じられていたのである。また、第3次攻撃の要請は赤城は行わなかったが、飛龍は行った。それに、第3次攻撃の要請を取り消したのは他でもないイソロクさんだったのだ。
何故、真珠湾攻撃が負けたのか。それは、石油タンクと修理工場を残してしまったからだ。
そして、日本村は間違いなく電文を送ったにも関わらず、大使館で解読が遅れ、ルーズベルトさんは大激怒した。よって、真珠湾攻撃は奇襲と呼ばれてしまったのであった。
イソロクさんは、挽回をするため、みんなが反対する中、ミッドウェー海戦を計画した。いや、真珠湾攻撃でさえ、みんなの反対を押し切って実行したものであったのだ。ミッドウェー海戦は翌年の6月4日から6月6日に行われた日本村とアメリカ村の海戦である。
しかし、この時、赤城の無線は故障していた。そうとも知らず、イソロクさんは信号を送らなかった。これによって赤城は兵装転換中に攻撃を受け、加賀、蒼龍、飛龍もあっという間に火の海となったのである。
『1942年6月6日、0時15分、総員退去!』
飛龍に残ったのは、タモンさんとトメオさんだった。そして、タモンさんは飛龍を味方に魚雷を打たせたのだ。
後世の人は言う。
『ナグモが戻ってきたから日本村は負けた』
時は大東亜戦争末期。
私は、婚約者のヨルクさんのお墓の前で手を合わせた。
「ヨルクさん、私は妖精村のために闘います!いつか……いつか……お会いしましょう」
そして私は空を見上げた。
「ラルク、何処にいるの?生きて戻るの?妖精神社で会おうね」
私はナノハナ家に戻り、荷物をまとめた。
世間は特攻のニュースで溢れていた。
特攻というのは、○6、○8、○大の4種類のことを示す。しかし、特攻の創案者と特攻を生み出した人は違う。また、P基地のコウゾウさんは『お金持ちだからこそ、特攻なんてことが実現出来るんだ』と言っていた。
どうして、若者が特攻へ行くのか。
お国のため?
上官の命令?
不可に丸を打てないから?
そうではない。
特攻をすれば、二階級昇進となる。つまり、国から手当を受けられ、残された家族の一生の暮らしが保証されるのである。そのために志願する人が多かったらしい。また、特攻をせず、死んでしまえば家族が路頭に迷うことも後を絶えなかったのは事実だ。
神風特攻隊の司令官に就任することになった私は、中将に挨拶をした。しかし、パイロットは人気の部隊で、私は特別基地に行くよう命じられた。
2日後、私はある基地に来た。それは回天基地だった。
人間魚雷回天。
話に聞いたことはあるが、全長15mととても大きな戦闘機だった。創案者はクロキ大尉とニシナ中尉。指揮官はイタクラさんである。また、イタクラさんは指揮官を任された以上は自分も特攻に行くと志願したが、上層部から反対されている。
私は、研修生のみんなに挨拶をした。
「この度は、回天の講習員を任されたナミネです。よろしくお願いします」
この時の私は25歳だった。研修生は16歳前後といったところだろうか。特攻に行くとは知らず、パイロットの基地から回された若者が大半だと私は思った。騙すのは良くない。だから私は言った。
「皆さんは、回天に乗って敵艦に体当たりをします。また、回天は桜花と違って、一度前に進めば後に戻ることは出来ません。ただ、前に進むのが回天です。全力は30ノットです」
その瞬間、若い研修生たちは騒ぎ始めた。
「体当たり?そんなの聞いてないぞ!」
「私たちは死ぬのか?」
「そんな……これじゃあ騙されたのと同じじゃないか!」
「死にたくない!」
イタクラ指揮官が騒ぎを止める前に私は怒鳴った。
「皆さん、静かにしてください!死にたくない者は無理に死ねとは言いません!けれど、ここに来たからには訓練はちゃんとしてもらいます!」
しかし、私の言ったことが納得いかなかったのか、ニシナ中尉が私の前に立った。
「死にたくない。そんな甘ったれた者は今すぐここから出ていけ!」
「ニシナ中尉、この子たちは本来なら高校生活を満喫している若者たちです。あまり厳しくしないでください」
「ナミネ少将、あなた何か勘違いをしていまけんか?戦争を甘く見ているあなたが司令官に就任だなんて私は認めたくないです!生きるか死ぬかと言う時に、死を恐れていては生きることさえままなりません!そして、研修生のためにもならないでしょう」
ニシナ中尉は21歳で本来なら大学生活を楽しんでいる年頃だろう。けれど、私の方が階級が上なのに私に楯突いたニシナ中尉の腕を私は掴んだ。
「勘違いしているのはあなたです!マサツラさんは特攻などしていません!あんなの袋のネズミじゃないですか!それに、あなたは『マサツラさんは観心寺の近くに住んでいた』と書いていますが、マサツラさんは観心寺に住んでいたんです!マサシゲさんが湊川の戦いに行くから観心寺に身を寄せたんです!歴史も知らないあなたに盾突かれる筋合いはありません!」
ニシナ中尉は私の腕を振り払い何も言わずに去って行った。ニシナ中尉は相部屋で意気投合し、人間魚雷回天を一緒に生み出したクロキ大尉を1944年9月7日に亡くしている。それ以降のニシナ中尉は悲しみを堪えながら心を鬼にし、回天隊を引っ張ってきたのである。
その夜、私は特攻熱望二重丸に丸を打ち、上層部に提出した。イタクラさんの時のように猛反対されたが、私はそれを押し切った。
少佐のイタクラさんなら、戦争後生きていても問題はないだろう。けれど、少将が戦後生きているなど許されることではなかったのである。どの道、私は死ななければならなかった。
1944年11月8日。
私はイ47にて搭乗服を着て大津島を出発した。潜水艦の中は40度を超えていて、男性のみんなは短パン1枚で計画を立てていた。女の私は服を脱ぐことも出来ず、ひたすら熱さに堪えていた。
1944年11月19日。
イ47はウルシーまでやって来た。
「総員配置に付け!」の号令が飛んだ。
1944年11月20日。
最後の日が来た。
午前3時、「1.2.5号艇、乗艇用意!」の発令を受け、私は七生報国のハチマキを締めた。ニシナ中尉はクロキ大尉の遺骨の入った箱を持っていた。
私は5号艇に乗艇した。
イ47はマヤガン島近海に着いたのである。
「ラルク、私行くよ!」
私はどこにいるかも分からないラルクに言葉を届けた。
そして、オリタ艦長との最後のやり取りがはじまった。
「5号艇、発進準備よーい!」
私は起動弁を全開にし、電話を手に取った。
「5号艇、発進準備用意よし!」
オリタ艦長はもう一度言った。
「5号艇、発進準備よーい!」
「5号艇、発進準備用意よし!」
「何か言い残すことは?」
「何もありません!」
「5号艇、発進!」
私は、上甲版から離脱した。電話線は切れ、私は米艦船郡に突入して行った。覚悟はしていたが、回天は本当に前にしか進まない。そして、見守るのはイ号。これが、神風隊だったら、1~3号機に1機の直掩機が付けられる。また、直掩機も特攻隊で、特攻する人の全てを上官に報告する、つまり、死なない特攻しない特攻隊なのである。
20m先に空母があるはず。けれど、何かがおかしい。私は潜望鏡を確認した。周りにワナが張られている。
「武士が水飲むわけにはいかないよ」
その言葉を最後に私は、事前に渡されていた青酸カリを飲んだ。私が死んだだろう後、5号艇はワナにぶつかり爆発した。
1945年5月8日、ドイツ降伏、1945年7月31日、インディアナポリスは沈没、1945年8月6日 午前8時15分17秒 広島にリトルボーイが投下、1945年8月9日 午前11時5分 長崎にファットマンが投下され、1945年8月15日、玉音が流れた。ウガキ少将は彗星に乗り、オオニシ中将は切腹した。
1945年9月2日。
日本村は終戦となった。
インディアナポリス艦長であるチャールズマクベイは、イ58のモチツラさんが『あの至近距離ではジグザグ航行をしていたとしても、私の魚雷からは逃れることは出来なかったでしょう』と証言するものの、『退去命令については無罪』の判決が下り、1968年11月6日に自殺をした。
また、後にキョウコさんがニシナ中尉のお母様に「あなたの息子さんは死んだのにイタクラが生きていて申し訳ありません」と言ったのに対し、ニシナ中尉のお母様は「イタクラさんだったからこそ、セキオは喜んで死んで行ったんです」と返している。
家族の死を恨まず強く生きる。戦争時代だからこそ、そういった強さは必要だったのかもしれない。
ねえ、戦争って……戦争だからこそ、自分を見失っちゃいけないんだよ。
私が戻ることなんて許されないし、戻って帰っちゃいけないんだよ。大元帥(天皇陛下)の計画に参加していたもの。戻れるわけがないよ。
ヨルクさん……会いたい……会いたいよ……。
〈完〉
《ナミネ》
1941年12月8日。
日本村は大東亜戦争の幕開けとなった。
人はよく『戦争は決して繰り返してはいけない』と簡単に言うけれど、その人たちの言うところの戦争は大東亜戦争のことで、戦国時代は含まれていない。戦国時代だって多くの人が亡くなったのに、何故人は戦争のことを大東亜戦争のみしかカウントせず、戦国時代のことは楽しそうに書物を読んでいるのだろう。私には分からなかった。
真珠湾攻撃は呆気なく日本村の負けとなった。イソロクさんは言っていた。
『出来るヤツは言わなくてもする。けれど、ナグモはしない』
ナグモはしない。けれど、それには裏があったのだ。ナグモさんは軍令部総長から赤城を壊さず戻すよう事前に命じられていたのである。また、第3次攻撃の要請は赤城は行わなかったが、飛龍は行った。それに、第3次攻撃の要請を取り消したのは他でもないイソロクさんだったのだ。
何故、真珠湾攻撃が負けたのか。それは、石油タンクと修理工場を残してしまったからだ。
そして、日本村は間違いなく電文を送ったにも関わらず、大使館で解読が遅れ、ルーズベルトさんは大激怒した。よって、真珠湾攻撃は奇襲と呼ばれてしまったのであった。
イソロクさんは、挽回をするため、みんなが反対する中、ミッドウェー海戦を計画した。いや、真珠湾攻撃でさえ、みんなの反対を押し切って実行したものであったのだ。ミッドウェー海戦は翌年の6月4日から6月6日に行われた日本村とアメリカ村の海戦である。
しかし、この時、赤城の無線は故障していた。そうとも知らず、イソロクさんは信号を送らなかった。これによって赤城は兵装転換中に攻撃を受け、加賀、蒼龍、飛龍もあっという間に火の海となったのである。
『1942年6月6日、0時15分、総員退去!』
飛龍に残ったのは、タモンさんとトメオさんだった。そして、タモンさんは飛龍を味方に魚雷を打たせたのだ。
後世の人は言う。
『ナグモが戻ってきたから日本村は負けた』
時は大東亜戦争末期。
私は、婚約者のヨルクさんのお墓の前で手を合わせた。
「ヨルクさん、私は妖精村のために闘います!いつか……いつか……お会いしましょう」
そして私は空を見上げた。
「ラルク、何処にいるの?生きて戻るの?妖精神社で会おうね」
私はナノハナ家に戻り、荷物をまとめた。
世間は特攻のニュースで溢れていた。
特攻というのは、○6、○8、○大の4種類のことを示す。しかし、特攻の創案者と特攻を生み出した人は違う。また、P基地のコウゾウさんは『お金持ちだからこそ、特攻なんてことが実現出来るんだ』と言っていた。
どうして、若者が特攻へ行くのか。
お国のため?
上官の命令?
不可に丸を打てないから?
そうではない。
特攻をすれば、二階級昇進となる。つまり、国から手当を受けられ、残された家族の一生の暮らしが保証されるのである。そのために志願する人が多かったらしい。また、特攻をせず、死んでしまえば家族が路頭に迷うことも後を絶えなかったのは事実だ。
神風特攻隊の司令官に就任することになった私は、中将に挨拶をした。しかし、パイロットは人気の部隊で、私は特別基地に行くよう命じられた。
2日後、私はある基地に来た。それは回天基地だった。
人間魚雷回天。
話に聞いたことはあるが、全長15mととても大きな戦闘機だった。創案者はクロキ大尉とニシナ中尉。指揮官はイタクラさんである。また、イタクラさんは指揮官を任された以上は自分も特攻に行くと志願したが、上層部から反対されている。
私は、研修生のみんなに挨拶をした。
「この度は、回天の講習員を任されたナミネです。よろしくお願いします」
この時の私は25歳だった。研修生は16歳前後といったところだろうか。特攻に行くとは知らず、パイロットの基地から回された若者が大半だと私は思った。騙すのは良くない。だから私は言った。
「皆さんは、回天に乗って敵艦に体当たりをします。また、回天は桜花と違って、一度前に進めば後に戻ることは出来ません。ただ、前に進むのが回天です。全力は30ノットです」
その瞬間、若い研修生たちは騒ぎ始めた。
「体当たり?そんなの聞いてないぞ!」
「私たちは死ぬのか?」
「そんな……これじゃあ騙されたのと同じじゃないか!」
「死にたくない!」
イタクラ指揮官が騒ぎを止める前に私は怒鳴った。
「皆さん、静かにしてください!死にたくない者は無理に死ねとは言いません!けれど、ここに来たからには訓練はちゃんとしてもらいます!」
しかし、私の言ったことが納得いかなかったのか、ニシナ中尉が私の前に立った。
「死にたくない。そんな甘ったれた者は今すぐここから出ていけ!」
「ニシナ中尉、この子たちは本来なら高校生活を満喫している若者たちです。あまり厳しくしないでください」
「ナミネ少将、あなた何か勘違いをしていまけんか?戦争を甘く見ているあなたが司令官に就任だなんて私は認めたくないです!生きるか死ぬかと言う時に、死を恐れていては生きることさえままなりません!そして、研修生のためにもならないでしょう」
ニシナ中尉は21歳で本来なら大学生活を楽しんでいる年頃だろう。けれど、私の方が階級が上なのに私に楯突いたニシナ中尉の腕を私は掴んだ。
「勘違いしているのはあなたです!マサツラさんは特攻などしていません!あんなの袋のネズミじゃないですか!それに、あなたは『マサツラさんは観心寺の近くに住んでいた』と書いていますが、マサツラさんは観心寺に住んでいたんです!マサシゲさんが湊川の戦いに行くから観心寺に身を寄せたんです!歴史も知らないあなたに盾突かれる筋合いはありません!」
ニシナ中尉は私の腕を振り払い何も言わずに去って行った。ニシナ中尉は相部屋で意気投合し、人間魚雷回天を一緒に生み出したクロキ大尉を1944年9月7日に亡くしている。それ以降のニシナ中尉は悲しみを堪えながら心を鬼にし、回天隊を引っ張ってきたのである。
その夜、私は特攻熱望二重丸に丸を打ち、上層部に提出した。イタクラさんの時のように猛反対されたが、私はそれを押し切った。
少佐のイタクラさんなら、戦争後生きていても問題はないだろう。けれど、少将が戦後生きているなど許されることではなかったのである。どの道、私は死ななければならなかった。
1944年11月8日。
私はイ47にて搭乗服を着て大津島を出発した。潜水艦の中は40度を超えていて、男性のみんなは短パン1枚で計画を立てていた。女の私は服を脱ぐことも出来ず、ひたすら熱さに堪えていた。
1944年11月19日。
イ47はウルシーまでやって来た。
「総員配置に付け!」の号令が飛んだ。
1944年11月20日。
最後の日が来た。
午前3時、「1.2.5号艇、乗艇用意!」の発令を受け、私は七生報国のハチマキを締めた。ニシナ中尉はクロキ大尉の遺骨の入った箱を持っていた。
私は5号艇に乗艇した。
イ47はマヤガン島近海に着いたのである。
「ラルク、私行くよ!」
私はどこにいるかも分からないラルクに言葉を届けた。
そして、オリタ艦長との最後のやり取りがはじまった。
「5号艇、発進準備よーい!」
私は起動弁を全開にし、電話を手に取った。
「5号艇、発進準備用意よし!」
オリタ艦長はもう一度言った。
「5号艇、発進準備よーい!」
「5号艇、発進準備用意よし!」
「何か言い残すことは?」
「何もありません!」
「5号艇、発進!」
私は、上甲版から離脱した。電話線は切れ、私は米艦船郡に突入して行った。覚悟はしていたが、回天は本当に前にしか進まない。そして、見守るのはイ号。これが、神風隊だったら、1~3号機に1機の直掩機が付けられる。また、直掩機も特攻隊で、特攻する人の全てを上官に報告する、つまり、死なない特攻しない特攻隊なのである。
20m先に空母があるはず。けれど、何かがおかしい。私は潜望鏡を確認した。周りにワナが張られている。
「武士が水飲むわけにはいかないよ」
その言葉を最後に私は、事前に渡されていた青酸カリを飲んだ。私が死んだだろう後、5号艇はワナにぶつかり爆発した。
1945年5月8日、ドイツ降伏、1945年7月31日、インディアナポリスは沈没、1945年8月6日 午前8時15分17秒 広島にリトルボーイが投下、1945年8月9日 午前11時5分 長崎にファットマンが投下され、1945年8月15日、玉音が流れた。ウガキ少将は彗星に乗り、オオニシ中将は切腹した。
1945年9月2日。
日本村は終戦となった。
インディアナポリス艦長であるチャールズマクベイは、イ58のモチツラさんが『あの至近距離ではジグザグ航行をしていたとしても、私の魚雷からは逃れることは出来なかったでしょう』と証言するものの、『退去命令については無罪』の判決が下り、1968年11月6日に自殺をした。
また、後にキョウコさんがニシナ中尉のお母様に「あなたの息子さんは死んだのにイタクラが生きていて申し訳ありません」と言ったのに対し、ニシナ中尉のお母様は「イタクラさんだったからこそ、セキオは喜んで死んで行ったんです」と返している。
家族の死を恨まず強く生きる。戦争時代だからこそ、そういった強さは必要だったのかもしれない。
ねえ、戦争って……戦争だからこそ、自分を見失っちゃいけないんだよ。
私が戻ることなんて許されないし、戻って帰っちゃいけないんだよ。大元帥(天皇陛下)の計画に参加していたもの。戻れるわけがないよ。
ヨルクさん……会いたい……会いたいよ……。
〈完〉
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